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昌朋カフェブログ

食事

昌朋カフェ
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加工食品を食べないようにいつも努力していますが、なかなか難しいなぁと思います。なぜなら例えば牛乳も加工食品です。でも自分で牛を飼って毎朝絞ることなんかできないですしね_φ(・_・                   自分でできる範囲でできる限り自然な食事を心がけますが、なかなか難しいものです。                              私がしているできる限り自然な食事は、できる限りシンプルに食べること、です。                                        食べ物って結局は形を色々と変えて食卓にだしているだけで元は同じです。牛肉なら焼肉にしたりハンバーグにしたり色々と形を変えて食べていますが元は牛肉です。野菜は切ってそのままスープに入れて食べ、お肉も脂がなければそのままスープに入れて、手羽先などは1時間ほどクツクツと煮て、脂をきれいにとってからスープごといただきます。サラダは外では玉葱などは水にさらして食べますが私は水にさらさないで食べます。辛味が気になるなら玉葱のスライスに納豆やオクラ、長芋をすって一緒に混ぜて食べると気になりません。水にさらすと栄養がでてしまうので。

基本的に外食はあまりしませんが、お昼外に出ているときは軽くカフェで済ませるときがあります。その時はそのカフェメニューの中で一番シンプルなものを選ぶようにしています。袋詰めにされているパンやスイーツは余程の事がない限り食べません。例えばトーストを焼いただけのシンプルなものがあればラッキーっと思って注文します。パンの上にマーガリンやバターをぬっている場合は抜いてもらいます。まぁ、ただ焼いただけのパンですね^_^             複雑になればなるほど、添加物が多くなってしまうので。   軽く済ませる場合は必ず塩を一緒に摂ります。いつも塩は持ち歩いているので、飲み物に入れて飲みます。パンなどで軽く済ませるときは塩分が少なすぎるので。自家焙煎珈琲でないと外では珈琲は飲まないです。自家焙煎でも焙煎機がちゃんと置いてあるお店に限ります。「自家焙煎」と書いていても違う場所で焙煎している場合は、焙煎してどれくらいたったものかがまったくわからないからです。焙煎して1年も2年も経過している豆は酸化しているので(豆には油分がけっこう多いですから)胃に負担がかかるので。あとは産地を書いているメニューがあるお店に限ります。珈琲豆も中国産などもありますので産地が書いていない珈琲メニューしかないお店では飲みません。基本は紅茶にしています。

「なんて楽しくない食べ方だ」と思われてしまいますね。でも、今まで生きてきて色んな本を読み、自分自身も身体を悪くした時期や家族の体調の変化や病気になる要因など色々と自分なりに経験し、考えた結果、現在こうなりました。

日頃の食事も、なんら変わりない食事です。だいたいは具だくさんスープとピビンパ。冬はほぼ毎日鍋ですね。性格上、本当は凝った料理を作るのは好きです。添加物をまだ知らなかった時期はキッシュやポテトサラダなど色々と作っていました。添加物以上に油の摂取もかなり控えていますので、結局は鍋料理が多くなりますね。

「油」「脂」植物性も動物性も両方食べないようにしています。揚げ物はもう2年以上は食べていないかな?というくらい食べていません。これからも食べません。酸化しているから。

「そんな人生は何だか楽しくない」と言われたことがあります。そうですね。でも私にとっては何が一番大切か?と聞かれたら、なるべく健康でいられる身体づくりを怠らない事、が一番の幸せだからです。                                                                                            父は私が十代の頃に急性心筋梗塞で亡くなりました。父の死をきっかけに母は変わり、まだ私達兄弟も幼かったですから「あんた達を残して私は死ねない」とよく言ってました。祖母も母が30代の頃に亡くなりましたが、年齢と共に病気を繰り返していたので心のどこかで弱っていく母を見ると、だんだんと「死」をどこかで連想していたんじゃないかと思いますが(それでも悲しいですよね)、父の死は突然やってきたので、なんだか心が宙に浮いた感じだったのを覚えています。「人はこんなにも早く亡くなるものなんだ」と母はよく言っていました。「死」はどんな人間、生き物でも常にとなり合わせで生きていることは分かってはいても、なかなか実感できるものではありません。

それから母は普段からよく歩くようになりました。それまで健康のことなどあまり考えたことはなかったようですが、紅人蔘もその頃くらいから飲むようになったと思います。家でラジオ体操をしたり、自分なりに健康を意識していましたね。今では「私が健康でいるのは自分の為だけじゃない。今私が倒れて介護しなければならなくなったら、あんた達の仕事にも影響があるでしょ」とよく言います。「将来母が倒れて介護をするようになったら精神力も体力も必要になるので、私自身も健康でいよう」と意識しています。「健康でいる」ということは自分の為だけじゃない、と思います。例えば両親が亡くなって兄弟も身内も誰もいなかったとしても、「生きている」ということに意味があり、「生」をまっとうする義務があります。本当は父ではなく私が死んでいたかもしれないし、人はわかりません。でも私ではなく父が亡くなり、私の命が残っているということはそこに意味がある、と思います。

父は優しい人だったけれど柔軟性はなかったです。父以外の家族は朝からごはんと味噌汁などがっつり食べていましたが、父は「朝からそんなに食べられない」と言い、父の朝食はパンと珈琲だけでした。母は韓国出身なので昔から野菜を食べる習慣があり、秋などは焼いたサンマにごはんとコチュジャンをチシャで巻いてよく食べていましたが、父は「お前はウサギか」と言っていたそうです。父の中で「野菜はウサギが食べるもの。」とゆう感じだったので野菜もほとんど食べなかったですね。そしてヘビースモーカーでした。ひどいときは1日3箱くらい吸っていましたね。お酒はあまり飲まなかったですが、タバコだけは大好きでした。亡くなる前に前兆はまったくなかったですが、亡くなる1週間前に、突然「タバコやめようかなぁ」と言っていました。あまりにもビックリしたので覚えています。なんせヘビースモーカーだったから。今思えば、もう体が受けつけなくなっていたのかもしれないな、と思っています。

今思うのは、もし父が元気で長生きするような人だったら、きっと私達と同じ食事を嫌がらずに食べていたんじゃないかな、ということ。

日々、面白みもない食事かもしれませんが、私にとって大切なことは「飽きないような様々な食べ方」ではないので。

まあ、人は十人十色ですから。私のような考え方の人間もいる、ということです。